車いすの夫とベルリンへ行きたいブログ

車いすユーザーの夫と暮らして発見したことなどをつづります。ドイツ語学習中。

マーベル映画を見て、マイノリティーの登場のさせ方がかなりうまいのではないか?と思った話

障害者やLGBTといった、いわゆるマイノリティーを、『普通に』、映画やドラマに登場させるべきだ。という意見があります。

 

日本で身体、知的、精神の障害がある人は約9%(令和5年版障害者白書)。ざっくり10人に1人はなんらかの「障害」があると思ってよいとして。だったら確かに、「全員が健常者」のようなドラマや映画は、ちょっと不自然である、と考えられると思います(外見からわからない障害があるのはともかくとして)。

なので基本的に、私はこの考えに賛成です。今回は、それについてつらつらと書いてみます。

 

「普通」に障害者を描くというのはけっこう、難しいことなのかもしれない。

 

なぜなら日本には「障害者を主人公にした作品」は数多くあるものの、障害者が「その他大勢の1人」として登場する作品はあまりないような、気がするからです。

なんなら、身体障害という「障害」を乗り越えるための波乱万丈……特に、健常者との間にできてしまった「障害」を乗り越える、という描き方が、多いような気がします。その典型的な例が、障害者と付き合おうとすると親に反対される展開とか、「障害のある自分とつきあうと不幸になる」などと言って恋人を突き放そうとする展開とか、だと思っています。

 

でも、本当にマイノリティーを自然に描きたいなら、「背景」の一部として障害者がいてもいいはずだ。

 

そして、同じことは性的マイノリティーの描き方にも言えると思う。

LGBTQを扱った作品は日本にもたくさんあるけれど、彼ら・彼女らがマイノリティーであることの「苦悩」を描く作品が多いのではないかと思います。(「きのう何食べた?」とか、そうではない作品もありますけどね)

 

ということで思い出すのが「ノッティング・ヒルの恋人」。この映画、好きなんです。ヒュー・グラント演じるさえない本屋がジュリア・ロバーツ演じる女優に恋をするという話ですが、本屋の友人たちが面白おかしくて素晴らしい。そして、そのうちの1人が車いすユーザーです。

最後に見たのも何年も前ですが、今になって「いいなあ」と思うのは、車いすユーザーだということが、ストーリーの大筋に何の関係もない!!ということです(主人公の恋愛偏差値の低さを証明する役をちょこっと果たす)。これぞ「自然」な登場のさせ方ではないでしょうか。

 

私が「好きじゃないなあ」と思い、そして意識的に変えていったほうがいいのではないか、と思っていることは、高確率で、マイノリティーが「苦悩」とセットにされていることなんです。

 

もちろん、社会のアップデートの遅さによって、傷ついている人はたくさんいると思います。「車いすユーザー」というマイノリティーである私の夫も、苦悩したことがあるかもしれません。でも、現在の私の夫でいえば、苦悩しているよりももっとずっと多くの時間を、フツーに過ごしているわけですよ(私が見たところでは)。障害者である以前に、1人の生活者であるわけなんで。アイス食いてーとか、青リンゴ味かと思ったらメロン味だったとか、ささやかなことに人生を使っているわけです。

 

苦悩を描くことは社会に気づきを与えるために必要だと思うけど、あまりにもそのイメージが大きくなると、マイノリティーに「暗い存在。不幸なめんどくさい存在」というイメージがしみついてしまう。と、私は思うわけです。

 

で、やっとタイトルですが、かなり前に夫とマーベルの映画を見に行きました。「ドクターストレンジとマルチバース・マッドネス」だったと思います。その映画の一瞬の!1場面を見て、「こ、これは………!」と思ったわけです。

 

marvel.disney.co.jp

 

それは登場人物の、いろんな世界線を行ったり来たり?できる少女が、両親のことを回想する数秒のシーンでした。

 

「My mothers....(お母さんたち……)」

 

画面には二人の女性が映されていました。

マザーが二人!!

「おお?」と二度見する間にマザーズは異空間に消えていき、回想は終了。

 

もちろん何にも説明はありません。「私のマザーズは同性愛者で……」とかのセリフももちろんなし。別の世界だからなのか?なんなのか?わからんがとにかく彼女にはマザーが2人。以上。なんも付け加えることなし、なのです。

 

私は、感心しました。マーベルさんお見事!!と、拍手を送りたいです(笑)

 

ごたごたとした説明を加える隙を与えず、さりげなくマイノリティーを登場させる。そういう意図があってのことかはわかりませんが、そうだとすればかなり成功しているし、路線として正しいのではないかと思いました。

 

マーベルはよく知らなかったけれど、なにやら興味を持ち出した今日このごろです、という話でした。